神田博善について

今日までのあゆみ

ページトップへ
  • 明治10年、火葬場再開に際し、小塚原火葬場(千住)は19ケ所の火葬寺を廃して共同火葬場となった。市の発展と郡部の膨張に伴い衛生上の観点から火葬場の存在が問題視されるに加え、明治19年には東京でコレラが大流行し、屍の累積と異臭問題で市民の間で火葬場移転の請願運動が勃発した。明治20年4月、小塚原火葬場は廃され、日暮里に移転し、これを同年6月に木村荘平氏東京博善(株)を発足して運営することになった

  • 木村荘平氏は山城國(現京都府)生まれで鳥羽伏見の戦に官軍御用商人として活躍した。後に東京警視庁大警視川路利良に嘱望され、屠牛場の経営を任され、これが牛鍋屋「いろは」 を開業させ大繁盛したとされる。

    桐ケ谷火葬場は現在の桐ケ谷斎場の門前に現存する霊源寺の荼毘所として家綱時代に発足。明治18年には火葬場と寺は分離され、福永幸兵衛らの10名の法行合名会社(匿名組合経営)に委ねられた後、大正7年12月に博善(株)の経営するところとなった 。

  • 当時、火葬業は卑しいもののたずさわる所としていた市民の考えを啓蒙する決意で、事業経営の上に死者追善を唱え「善(ぜん)を博(ひろ)める」営みとして行なわれていた。

    明治26年、東京博善は亀戸・砂村・落合・代々幡と次々に吸収合併し、火葬場の大衆啓蒙が促されていった。

  • 環境衛生医学の立場より燃料研究と無煙無臭火葬の実現を期し、且つ社会施設としての火葬場の尊厳な使命を強調した。

    震災削被害をうけた後、大正14年の総会では、社名が「博善」でもあり、業務は寺院延長との見地から、宗教者たる僧侶に執務させ、経営というよりは宗教的精神に重点を置くべきという見解から、日蓮宗大本山法華経寺貫主宇都宮日綱社長、真宗赤羽山法善寺住職 中山理々常務、日蓮宗堀之内妙法寺を代表し藤井教詮監査役らが任命され、まさに宗教的社会的使命自覚のあけぼのの時代を迎え、新たな東京博善(株)が発足した。

  • 宇都宮日綱社長は「我々の使命は営利の形の下に『博善』を目指すものである」との理念において、昭和4年5月、博善(株)を吸収合併し、博善(株)の経営であった桐ケ谷火葬場を桐ケ谷支社とし、神田にあった博善(株)の葬儀部は業務性質上、兼業分離され翌年1月、神田鎌倉町(現内神田2丁目)の本社に葬儀相談室が開設された。

  • 東京に於ける火葬場と葬儀についての近代史は、東京博善と博善の歴史ともいえる。昭和58年、桜井文雄氏が東京博善の筆頭株主となり、昭和60年、ついに僧侶経営の手を離れ、桜井文雄氏が東京博善の代表取締役会長に就任。平成2年、東京博善は約8倍の大規模増資の後、平成4年には筆頭株主が(株)廣済堂となる。

  • 両社は実質的に兼業分離はしながらも、昭和61年までは代表取締役は歴代兼務の時代が続いた。

    昭和61年、予てより博善の株主であった藤井教海氏が代表取締役社長に就任。グンゼ産業(株)の代表取締役経験を活かし博善の近代化経営に着手。

    平成11年7月に現本社を神田錦町に移転し、都心部を中心に都内全域で営業展開をはかる。

    平成17年2月、代表取締役社長に藤井城氏が就任し現在に至る。